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梅雨の夕べ。玉鬘の部屋の前は悩ましげな香りに満ちていました。空薫香(ルームフレグランス)と、源氏から漂うセクシーな香りが混ざり、兵部卿宮の期待は否が応にも高まります。
宮は歯の浮くようなキザなセリフではなく、落ち着いた誠実な言葉を重ねて、思いの丈をぶつけます。それを陰で聞いているのは、玉鬘ではなく源氏。恋にやつれた弟の真剣な様子を見ながら(なるほど、いいねいいね!)と悦に入っています。
肝心の玉鬘は部屋の奥に引っ込んでいました。源氏としては2人の愛のやり取りを観察したいわけですから、これはいただけない。早速、女房が言伝に行くのを追いかけて「何をやってるんだ。もう子どもじゃないんだから、恥ずかしがってないで。宮は無粋に扱ってはいけない男なんだから、直接話さないにしても、せめてもう少し近くに行きなさい」。
何ともうるさい父親です。玉鬘はまだ渋っていましたが、こうしていると催促にかこつけて、源氏が近寄ってこないとも限らない。またセクハラが始まっても困ると、仕方なく宮のいる居間の方へ出ていきました。
宮は長々と自分の恋心を訴えます。どう返事をしようかと悩んでいた矢先、源氏がそばに来て几帳の幕の一枚をさっと上げたかと思うと、何かがパァッと輝きました。
一瞬、灯を差し出されたのかと思いきや……その明りは蛍でした。源氏はこのために蛍を薄いものに包んで袖に隠し、頃合いを見計らって放ったのです。
筆者もゲンジボタルを見たことがありますが、思ったよりもずっと明るかったのが印象的でした。写真や映像で見ると黄緑色っぽいですが、肉眼で見ると白に近い、クリアな光でした。そして、ぽわ~、ぽわ~と、独特のリズムで点滅するのがなんとも幻想的でした。
実際に蛍たちは光で求愛行動をしていますが、まさにぴったりのイルミネーションというわけです。夜が今よりもずっと暗かった時代、蛍を集めてなんとか美女を見たい!と思った人は他にもいたらしく、『宇津保物語』にも蛍を集めてばらまくシーンが登場します。
デートで夜景やイルミネーションを楽しむのと同じように、平安時代は夜の恋の演出に蛍が一役買っていた。いつの時代も、恋を盛り上げるのはロマンティックな光の演出なのかもしれませんね。
玉鬘は突然の事に慌てて扇をかざしますが、宮は思いがけないサプライズにドキドキ!かすかな明りに浮かび上がった玉鬘の姿かたちを目に焼き付け、思った以上に彼女が近くにいることに感動します。「鳴かぬ蛍でさえああして恋の炎を燃やしている……まして人の恋心が消そうとして消えるものでしょうか」。
玉鬘は返事に時間をかけてはいけないと思い、素早く「鳴かずに身を焦がす蛍のほうが、ずっと深い想いを抱いていることと思います……」と返して、また部屋の奥へ。
あっさり引っ込んだ玉鬘に、宮はちょっと白け気味。(なんだ……随分よそよそしいな)と思いつつ、朝まで粘るのも下心がミエミエだろうと、まだ暗いうちに帰ります。確かに、もうちょっと応酬があれば盛り上がったのにってところですね。
このやり取りから、兵部卿宮には『蛍宮(ほたるのみや)』という呼び名が付きました。女房たちは蛍宮の雅やかさが源氏に似ていると褒め、また父親らしからぬ細やかな源氏の気遣いを讃えます。まあ、匂いから明りまで、凝りに凝った演出はプロデューサーとして素晴らしいです。
しかし、本当の娘ならこんな風に相手の男の心を煽ってほくそ笑んだりはしないはず。カメラがある時代なら、隠し撮りしてニヤニヤしたいような、テロップでも入れていじりたいような、恋愛バラエティも顔負けの一幕でした。
玉鬘は興奮気味の女房たちをよそに、ひとり深刻でした。
(仮に、本当のお父様に認めてもらった上で、源氏の君の恋のお相手になるのなら別に不自然じゃない。でも、今はあの方が私のお父様ということになっているから、おかしなことになるんだわ。
でも、ここで良くしていただいた事は本当に感謝しているから、できれば穏便に済ませたい)。寝ても覚めても、そのことで悩んでばかりです。
源氏も玉鬘に対して、想いが募るばかり。他の男にやりたくないと思う一方、関係を持ってしまって、世間に取り沙汰されるような仲になるのはためらわれます。
源氏は太政大臣という重い立場にあり、既に家族と落ち着いた理想の暮らしを送っている。そこで娘(血はつながってないが世間的には実の娘と思われている)とどうこうなったとなれば非難は避けられないし、彼女も周囲も傷つくことになるのは自明です。
ここで解説的に、源氏が未だに秋好中宮にも色っぽいことを言っては気を引こうとしていること、でも相手は中宮で、本当にそういう関係になってしまうとそれこそ一大事なので、あくまでも冗談程度にしていることが書かれています。うーん、あちらにもまだセクハラを。懲りないやつめ。
更に、”玉鬘は中宮に比べ、親しみやすく可愛いので、どうしても見ているとちょっかいを出さずにいられない。時々は人が見たら誤解するような振る舞いをすることもあるが、そこは何とか一線を越えないようにしている。何とも危うい関係である”とあります。玉鬘も随分ナメられたもんです。
確かに、秋好中宮の側には遠慮して踏み込めなかった源氏も、玉鬘には初回から下着姿で寝転がるなど大胆な行動を取っていました。が、今となってはもう明らかに誤解されるような言動に及んでいるわけですね。
仕事や家庭が安定しているから余計に、こういったスリルに首をツッコみたいという欲もあるのでしょうか?それにしてもタチが悪い!
5月5日、端午の節句になりました。夏の町では、馬場での競馬や弓比べのイベントが開かれます。夕霧が友人らを連れて参加し、若い女房たちは夢中になってイケメン達の武芸を観ています。
皇族貴族、有力な面々もゲストに呼ばれていますが、もちろん気になるのは玉鬘のこと。ゲームもそっちのけで熱視線を送っています。
源氏は早速、玉鬘の部屋に行き、しれっと「先日はどうでした。宮は朝まで居たの?あまり気を許すのは感心しないね。男はみんな狼だからね。優しそうに見えて、彼だって男なんだよ」。
こうして印象操作をする様子は“活けみ殺しみ戒めおはする御さま”とあります。言葉通り、活かすも殺すも自分次第。宮は源氏のいいオモチャです。
でも、こんなにイヤらしい男なのに、えも言われぬいい香りを漂わせ、艶やかな色合いの直衣を無造作に着こなす姿は美しく若々しい。ただの普段着なのに、今日は格別素晴らしく見える気がします。玉鬘も(ああ、セクハラさえなさらなければとても素敵な方なのに……)と思わざるを得ません。
程なく、ゲストとして来ている蛍宮から手紙が来ました。「あなたに相手にされない私は声を上げて泣くだけなのでしょうか」。玉鬘は代筆でなく自ら返事を書きますが、宮はその筆跡を見て(惜しい、もうちょっと字が上手だったらな)。文化人としてはそこが少し物足りないようでした。
楽しい一日が終わり、源氏は久々に花散里の部屋に泊まりました。いつもイベントごとは紫の上の春の町。華やかな催しとは縁がないと思っていた花散里ですが、今日は自分の町にスポットがあたり、とても晴れがましかったのでした。
「蛍宮はやはり群を抜いているね。顔が良いというのではないが、優雅で魅力的な男だ」と源氏が褒めると、花散里が意外な眼力を発揮します。
「蛍宮は殿の弟君なのに、落ち着いていらっしゃるからか、まるでお兄様のように見えました。ずっと昔に宮中でちらっと拝見しただけですが、その頃に比べてとてもご立派になられました。帥宮(源氏・蛍宮の弟)も素晴らしい方ですが、皇子様というよりは諸侯の誰かといった風でしたね」。
蛍宮の老け顔や、帥宮の品下る様子などは、源氏も全く同感でした。でも源氏が言うと悪口になってしまうので、言わなかったのです。無欲な花散里の目はカメラのように客観的なのでしょう。源氏は感服してニッコリします。
仲良くおしゃべりをしつつも、2人の寝床は別々です。花散里は帳台(ベッド)を源氏に譲り、自分は几帳を隔てて下に寝ます。
源氏は(いつからこうなったんだろう。夫婦なんだから、何も別々に寝なくてもいいじゃないか)と思いますが、彼女の方が「自分はもう男女の事には相応しくない」と身を引いているので、無理に誘ったりはしません。
花散里の客観的視線は客人だけでなく、自分自身にもしっかりと向いているが故のセックスレス。自他を問わず、徹底的に洞察する揺るぎなさは感嘆に値しますが、同時に辛いものでもあります。そこが源氏にとっても、わびしい気がするのかもしれません。
源氏の脳裏にはふと、今日も顔を見せていた玉鬘の結婚相手候補のひとり、髭黒(ひげくろ)の事が浮かびました。(立派だと褒める人もいるようだが、何ほどのものか。もし婿になったら、さぞかし不満なことだろう)。
口に出しては言わないものの、どの男も玉鬘を託すのには不満アリアリの源氏。結婚話は進捗しないまま、季節は長い梅雨へと移っていきます。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
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(執筆者: 相澤マイコ) ※あなたもガジェット通信で文章を執筆してみませんか