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どれだけ練習を重ねてもある地点から技術が停滞してしまうこの現象。
そんな“音楽家の壁”を乗り越える新しい研究が、ソニーコンピュータサイエンス研究所(Sony CSL)に所属する古屋晋一氏ら研究チームによって発表されました。
彼らは外骨格型ロボットグローブによってピアニストの指を自動的に動かし、通常の練習では体験できない「超高速かつ複雑な指の動き」を可能にしました。
そして、そのような超高速の練習を体験したピアニストたちは、これまでの自分たちの限界を超えることができたのです。
この研究の詳細は、2025年1月15日付の『Science Robotics』誌に掲載されています。
目次
熟練ピアニストたちは、練習すればするほど技術が向上するという単純な成長曲線が、ある地点で平坦化してしまう現象を経験します。
どれだけの努力を費やしても、一定以上の速さや正確さを実現できないという壁に突き当たるのです。
この現象は、指の物理的な速さの限界や、脳内で既存の神経経路が固まることで生じるとされています。
では、どうすればこの壁を打ち破れるのでしょうか。
ここで鍵となるのが「新しい感覚体験」です。
人間の脳と体は、未経験の動きや刺激に触れることで、これまで使われていなかった神経経路を活性化し、新たなスキルを学習する能力を持っているのです。
とはいえ、熟練者が通常の練習で新しい刺激を得ることは困難です。
たとえ意識して速く弾こうとしても、従来の動きのパターンを超えるのは容易ではありません。
そこで古谷氏ら研究チームは、「受動的な運動による新しい感覚刺激」が天井効果を克服する可能性に着目しました。
外骨格ロボットグローブでピアニストの指を自動的に動かし、通常の運動速度を超える複雑な動きを体験させるというのです。
これまで外骨格技術は、医療リハビリテーションや産業分野で広く活用されてきました。
例えば、脳卒中患者のリハビリや、重い荷物を持つ作業員の負担軽減に役立てられてきました。
これらの分野では、外骨格が、主に人間の運動能力を補助し、回復を支援する目的で使用されます。
しかし今回の研究では、従来のように「人間の能力を補う」ために外骨格を使用するのではなく、「人間の能力を拡張し、限界を超える」ため活用しようというのです。
古谷博士たちの研究チームは、8歳になる前から少なくとも1万時間ピアノを弾いてきた合計118人の熟練ピアニストを対象に複数の実験を行いました。
まず、参加者たちは2週間、自宅で従来のピアノ練習を行い、技術が停滞することを確認しました。
この練習では、ショパンの『練習曲Op.25-6』やラヴェルの『オンディーヌ』など、高速かつ複雑な演奏が求められる難曲を課題曲としました。
こうした難曲を演奏するためには、指を独立して動かす能力や高い速度が求められますが、従来の方法では特定のスピードを超えることができず、演奏技術が頭打ちになることが改めて確認されました。
その後、参加者たちは研究室で外骨格グローブを装着し、右手の各指を毎秒4回の速さで動かすトレーニングを実施しました。
この速さは、参加者が自力で出せる指の動きの約1.7倍に相当し、通常の練習では不可能な速度です。
ちなみに、このグローブの動きは特定のパターンを基に設計され、指の交互運動や複雑な同時打鍵を正確に再現するものでした。
こうしたトレーニングにより、通常の練習では得られない速さと動きが脳と神経系に新たな刺激を与えるはずです。
そして結果は驚くべきものでした。
トレーニングの後、右手の指の動きが明らかに速くなったのです。
例えば、複雑な指の動きが必要とされるケースでは、打鍵間隔(2つのキーを連続して押したときの時間間隔)が平均で約27ミリ秒短縮(約6%向上)しました。
更に、グローブを装着していない左手においても上達効果が見られました。
研究者たちは、この結果について、右手への受動的なトレーニングが脳全体に影響を与え、左手の神経回路にもポジティブな変化をもたらしたからだと考えています。
加えて、トレーニング効果は単なる速さの向上にとどまらず、正確性の大幅に改善にも寄与しました。
このことから、外骨格によるトレーニングは、通常の練習では発達しない領域を刺激し、結果として「限界を超える」パフォーマンスを引き出せると分かります。
今回の研究は、熟練したピアニストたちが、外骨格グローブによって、自分の限界を超えることができることを示唆しています。
そしてこの技術は、指先の精密な動きが求められる外科手術や工芸、さらにはリハビリテーションやゲーム産業など、幅広い分野での応用が期待されています。
外骨格技術は、これまでのように、単に「人間の能力を補う」だけでなく、「人間の能力を拡張する」ことも可能かもしれないのです。
参考文献
Robotic hand helps pianists overcome “ceiling effect”
https://arstechnica.com/science/2025/01/robotic-hand-helps-pianists-overcome-ceiling-effect/
元論文
Surmounting the ceiling effect of motor expertise by novel sensory experience with a hand exoskeleton
https://doi.org/10.1126/scirobotics.adn3802
ライター
大倉康弘: 得意なジャンルはテクノロジー系。機械構造・生物構造・社会構造など構造を把握するのが好き。科学的で不思議なおもちゃにも目がない。趣味は読書で、読み始めたら朝になってるタイプ。
編集者
ナゾロジー 編集部