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たとえば初期のシュメール文明の数表記ではゼロがなかったため「55」と「505」が全く同じ表記で行われており、見分けがつかず不便だったため、後に55と505を区別するマークを0の位置に刻むことになりました。
ただこの段階では0の発見とまでは言えず、見分けるマークを使う「手法」を取り入れたに過ぎません。
数学的な意味の0が最初に定義されたのは7世紀のインドであり、それまで人類は0が入るべき場所にマークを打ち込む対処療法を続けていました。
歴史のほとんどの期間に渡ってゼロは「1,2,3,4,5…」といった自然数と考えられていなかったのです。
中世ヨーロッパでも無は無であって、無を何かの形で主張することは、キリスト教への冒涜であり、インドで発明されたゼロの文字は「悪魔の数字」として使用が禁じられていました。
自然数は観察可能な数に対応させるもので、「1羽の鳥」「3個のリンゴ」などの表現はあっても「0羽の鳥」や「0個のリンゴ」という表現は普通しません。
しかしゼロを概念化するには観察できないはずの「存在しないこと」を抽象化して、積極的に表現する必要があります。
そのため古くから、ゼロと他の数値は心理学的にも脳科学的にも別物だと考えられてきました。
実際、ゼロとは異なり、自然数を思い浮かべているときの脳活動は比較的簡単に見分けることが可能です。
過去に人間の脳活動と数字の関係を調べた研究では、1~9の自然数にはそれぞれに対応する、特異な脳活動が存在することも示されました。
ただ人間の脳において、ゼロがどのような神経表現となるかは、依然として不明でした。
そこで今回、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの研究者たちは、人間の脳でゼロがどのような脳活動を起こすかを調べることにしました。
人間の脳はゼロを自然数の仲間と見なしているのでしょうか? それとももっと別の何かとして処理しているのでしょうか?
脳内でゼロはどのように処理されているのか?
答えを得るため研究者たちは脳磁計(MEG)と呼ばれる装置が用意されました。
MEGを使うと、脳内でわずかに発生する磁場変化をとらえて、脳活動を記録することが可能です。
(※脳波計が脳の電気活動を読み取るのに対して、脳磁計は脳の磁気活動を読み取ります)
調査ではまず、29人の被験者の脳活動をMEGで調べつつ、上の図のような、2通りの簡単な課題を行ってもらいました。
1つ目は0~5個のドットを見る、数字を使わない課題です。
この課題では、被験者たちの目の前に「(空白)」「・」「・・」「・・・」「・・・・」「・・・・・」というドットの図が示されます。
(※具体的には、ドットの描かれた2枚の図を見て、描かれたドットの数が同じかどうか答えてもらうもの)
2つ目は0~5のアラビア数字を見る、数字を使う課題となります。
この課題では、被験者たちの目の前に「0」「1」「2」「3」「4」「5」と記された図が提示されます。
(※具体的には、色付きで描かれた数字を見て、最も大きな数字を描くのに使った色を答えるもの)
次に得られたMEGデータをAIに学ばせ、脳活動パターンの特徴を抽出しました。
すると、0でみられた脳活動パターンは1に最も近いことが判明します。
また数字たちの間に、ある種の特徴的な関係があることもわかりました。
上の図では、それぞれの数字に対する脳活動パターンを視覚的に示したものとなります。
ドットをみた場合には、0~5のそれぞれの脳活動には数直線上に並んでおり、数的に近いものは、距離的にも近くなっているのがわかります。
実際グラフでみると、2と3の距離は2と5の距離よりも短くなってるのがわかります。
数字をみた場合でも(密集していてわかりにくいですが)ドットをみたときと同じように直線的な距離関係がみられることが判明します。
そしてどちらの場合でも0はおおむね数直線上に配置されていることがわかりました。
この結果は、脳内において0の概念は自然数に付属する、あるいは内包される形で存在していることを示しています。
同様の0が自然数の一派であるとする結果は、動物の脳を調べた研究でも示されています。
つまり人間も動物も、自然数の心理的数直線の下端に0を配置しているのです。
研究者たちは「このような共有された配置は、0が数える対象がないことを知覚するための脳活動の基礎になっていることを示している」と述べています。
つまり脳活動のレベルでは、0は何もない「無」と区別されているようなのです。
動物が自然界を生き抜くには「存在すること」や「存在する数の多さ」だけでなく、加えて「存在しないことを知覚する」ことが重要になります。
たとえばサバンナに生息するシマウマの場合、脅威となる捕食者が存在することを知覚して逃げるだけでなく、存在しないことを知覚すれば安心して草を食べることができます。
研究者たちは「私たちの0の概念も、存在しないことを知覚する「不在の認識」がベースになっている可能性がある」と述べています。
というのも、これまでの研究によって、人間の脳はより複雑な認知能力のために、生まれつき備わっている感覚機能や運動機能を転用できることが示されているからです。
たとえば人間が持つ文字の認識能力は、元は果実を的確に見分けるための視覚能力が転用されていることが知られています。
同様に0の認識も、捕食者など数える対象が「存在しないこと」を特異的に認識するためのシステム(不在の認識)が転用さていると考えられます。
無と同じとみなされがちな「0」ですが、今回の研究では「1」の下にある「数の一派」として脳が「0」を認識していることが示されました。
本当に無の世界には「0」の概念はありません。数えるという能力を転用することで、人間の脳ははじめて「0」の概念を獲得できたのです。
元論文
Creating something out of nothing: Symbolic and non-symbolic representations of numerical zero in the human brain
https://doi.org/10.1101/2024.01.30.577906
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。