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戦国時代と現代の食事の違いを語るとき、一番大きな違いは一日二食であったことです。
現代と同じように一日三食に変わったのは江戸時代ですが、起源は戦国時代に遡るとも言われています。
戦国時代の武士たちは戦に明け暮れており、日常時では朝夕の2食でも十分であったものの、戦や移動などでエネルギーが必要になると食事量が不足し、間食を取るようになりました。
その間食が一般層にも普及していき、一日三食が一般的になったといわれています。
当時は精白した米を食べることができるのは公家層に限られており、武士や庶民は玄米に麦やアワを混ぜて食べていました。
日本人は古来よりさまざまな調理法で米を食べており、「焼米」、「蒸飯」、「粥」などが一般的だったのです。
特に粥は固粥と汁粥に分けられ、それ以外にも麦やヒエ、アワなどを入れたものが多かったといわれています。
また後述するように武将は行事の時には豪華な食事をしていたものの、日常時には質素を重んじ、ご飯に味噌汁をかけた汁かけ飯が一般的でした。
また、戦国大名である上杉謙信(うえすぎけんしん)は一汁一菜で知られており、食べる量もかなり少なかったそうです。
豊臣秀吉も若い頃は質素な食事を好んでいましたが、出世してからは健康に気を使うようになり、お粥とダイコンを好んでよく食べるようになりました。
このように室町時代の食事は多岐にわたり、現在でも私たちが食べる野菜や果物、魚介類、鳥獣類などが多く含まれていましたが、農耕に使う牛や、戦に使う馬を基本的に食べることはなかったようです。
この時代の食事は豊富で多様性に富み、現代の食生活ともつながりがあります。
それで戦国武将は行事の時はどのような食事をしていたのでしょうか? 室町時代に完成した「本膳料理」は武家の儀式料理として根付き、和風料理の基礎を築きました。
本膳料理は武将のもとに客がやってきたときに客をもてなすために振舞われる料理であり、宴会の要素もあったものの、かなり儀礼的なものでもあったのです。
宴会の形式は主人と客が挨拶をする式三献の儀式に始まり、その後宴会に移りました。
料理の配置は地域によって異なり、一部は折詰めとして土産として持ち帰られていたのです。
本膳料理は20品目を超える豪華な料理を夜通しかけて大勢で共食し、非常に大掛かりなものとなっていました。
織田信長が徳川家康をもてなすために本膳料理を例に取ると、本膳(中央前の膳)にはタイの焼き物やコイのなます、二膳(中央左の膳)にはウナギの丸焼きや鯉汁、三膳(中央右の膳)にはキジを焼いたものやツル汁、与膳(前方左の膳)には鮒汁やシギつぼ(ナスの真ん中をくり抜き、酒で煎ったシギ肉をつめて柿の葉で蓋をし、藁でからげた料理)、五膳(前方2番目の右の膳)にはカツオの刺身や鴨汁などといった料理が並んでいます。
前方1番目の右の膳にはお菓子が置かれており、美濃柿やお餅などがあります。
ちなみに当時は美味な鳥や魚をまとめた言葉として「三鳥五魚」という言葉が使われており、それはツル・キジ・ガン(三鳥)とコイ・タイ・スズキ・カレイ・サメ(五魚)を指しています。
当然この本膳料理にもふんだんに使われており、いかにメジャーなものであったのかが窺えます。
なおこのメニューを決定したのは明智光秀であり、京や堺といった場所に出向いて食材の調達を行いました。
しかし信長はそのメニューを見て大激怒し、光秀をもてなす役から外したのです。
何が気に障って光秀がもてなす役から外れることになったのか現時点ではわかっていませんが、この一件がきっかけで光秀は本能寺の変を起こしたともいわれています。
この本膳料理は明治時代以降衰退し、現在の日本ではほどんど見ることがありませんが、現在の会席料理にその名残を見ることができます。
このように行事があったときなどは豪華な食事を食べていたのですが、意外なことに出陣前も豪華な食事を食べていました。
戦国大名たちは足軽や下級武士たちに普段食べることのできない贅沢な食事をふるまい、合戦前に士気を向上させようとしたのです。
また先述した上杉謙信も日常の粗食とは打って変わって出陣前は大量に食事を取っており、戦に備えて栄養補給をしました。
ただ、戦場においては兵糧の運搬量に限界があるということもあって、簡便性と保存性が重視されました。
兵士たちは自前で兵糧を用意し、それ以上の場合は大名が年貢の備蓄を兵糧として提供したのです。
兵糧の中身は主に握り飯や焼き味噌、芋の茎、梅干しが含まれており、味付けは極めて控えめでした。
また「腹が減っては戦ができぬ」とことわざにあるように、戦場では食事が生死を左右する重要な要素でした。
兵士たちは濡らした布で米を包み、地面に埋めて火を燃やして調理したのです。
米を炊くときに必要な釜や鍋がない場合もあり、そのようなときは地面に穴を掘って火を起こし、そこに米を入れて調理しました。
水の確保も重要であり、「毒を流されているかもしれない」ということで敵地の井戸などは決して使用せず、流れる川の清水を利用したのです。
さらに合戦の際は験担ぎとして勝ち栗、打鮑(うちあわび:アワビを薄く切り、干したもの)、昆布の3つが食べられることが多く、これらは武将たちだけでなく、それ以外の兵士たちにも振舞われました。
これらはそれぞれ「戦いに勝って」、「敵を討って」、「喜ぶ」という意味がかかっており、非常に縁起のいいものとされていたのです。
また栗や鮑、昆布は干すことによって長く保存でき、持ち運びが容易であったため、兵士たちに振舞う分も含めて大量に戦場に運ぶことができたのです。
さらにクジラの肉も鯨呑(げいどん)という言葉が「国を飲み込んで併合する」という意味に取られていたこともあって好まれており、陣中でもしばしば食べられていました。
このように験担ぎが重視されていたのはいかにも中世らしいですが、現在でも勝負事の前にカツ丼を食べることがあることを考えると、その流れは脈々と受け継がれているように感じます。
参考文献
名古屋経済大学機関リポジトリ (nii.ac.jp)
https://nue.repo.nii.ac.jp/records/143
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。